なんかいろいろ。
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今日、起きたら8時20分でした。
1コマ目は、8時45分からです。開始早々に出席取ります。
またやっちまったよー
とりあえず慌てて家飛び出したら余裕で間に合いました。よかった!
友達に貸すために最近とらドラ!を7巻くらいから一気に読んだんですが・・・うん・・・、最後の方すっごいですねアレ・・・。アニメは確か残り2話くらい見てないですが・・・まあ、最後はとてもハッピーエンドだと思います。というか大河のデレっぷりがwww
そんなわけで城塞を上巻読んだところでまた中断してました。昨日から復活して中巻読み始めました。しょっぱなから真田一家の話だようひょーテンション上がる!
ということで?続きはただの真田語りです。語りっていうか、自分的メモです。とっても自己満足です!めっちゃキモいです!←
1コマ目は、8時45分からです。開始早々に出席取ります。
またやっちまったよー
とりあえず慌てて家飛び出したら余裕で間に合いました。よかった!
友達に貸すために最近とらドラ!を7巻くらいから一気に読んだんですが・・・うん・・・、最後の方すっごいですねアレ・・・。アニメは確か残り2話くらい見てないですが・・・まあ、最後はとてもハッピーエンドだと思います。というか大河のデレっぷりがwww
そんなわけで城塞を上巻読んだところでまた中断してました。昨日から復活して中巻読み始めました。しょっぱなから真田一家の話だようひょーテンション上がる!
ということで?続きはただの真田語りです。語りっていうか、自分的メモです。とっても自己満足です!めっちゃキモいです!←
真田氏の始まりは信州小県郡の真田村から。でも有名になったのは幸村のおじいちゃんの幸隆さんからです。武田が信州を攻略したときに2、3万石もらってそれで大喜びしたそうなので、元は小さな土豪だったのかもしれないです。村上さんは、領土を攻められて箕輪城に居候しなければならなくなった原因を作った仇敵。武田のお屋形様の後ろ盾を使って仕返しをしました。その方法が、 かつての真田の居城に村上の兵(侍500騎)を呼び出す→酒宴を開く→どさくさにまぎれて皆殺し☆ というとんでもない策。普通の戦国武将なら悪評を恐れて使いません。しかし、それをやっちゃうのが幸隆さん。この謀略っぷりは昌幸さんや信之さん、幸村にまで受け継がれています。このゲリラ戦法のおかげで 真田は忍びを使う というイメージがどんどん定着していくことになったようです。
武田の傘下になった幸隆さんが、人質としてお屋形様に差し出したのが三男の源五郎(昌幸さん)です。昌幸さんは持ち前の気配りでお屋形様のハートをばっちりゲット、めっちゃ気に入られてたようです。絶家になってた武藤家(武田の一族)を継がせて武田の一族にしちゃうくらい。そんなわけで、お屋形様に大事に育てられた彼は武田の軍法をばっちり学んでます。さらに歩兵部隊の一部を任されたりと実戦経験もばっちりです。やがて信玄が亡くなり、勝頼くんが長篠で大負けしたことで武田は修正不可能なくらい傾きます。ちなみに、長篠で昌幸さんのお兄さん(信綱さんと昌輝さん)が亡くなり、昌幸さんは信州に戻って真田の当主になります。武田の老臣たちが勝頼くんを見限って離反していく中、昌幸さんは最後まで勝頼くんのそばで励まし続けます。忠義に篤いところも真田の気質なんですかね。
ついでに言うと、このころ(戦国時代)にはまだ儒教がそんなに広まっていなかったようで?(このあたりはうろ覚えです・・・)、とりあえず、「忠心」という概念が無かったそうです。もちろん、気質として忠誠心の有り余る人はいます。なので、家臣があまりに熱心に主君に尽くすと 「あの二人デキてるんじゃない?」 的なうわさを流されたようです。この忠誠心という概念が広まったのは江戸時代だそうで。余談終わり。
やがて勝頼くんが自刃、武田が滅亡します。それから一時は滅ぼした直接の原因ともいうべき織田に付きます。しかし、本能寺の変で織田家も滅亡、天下取り合戦が始まります。家康がこのごたごたにまぎれて関東あたりの土地を一気にまとめます。ただの火事場泥棒です。この時代の天下争いは前のようにごちゃごちゃしたものではなく、大勢力同士の争いなので、ただの小大名だった真田家は 「とりあえず徳川についとけば安全」 ということで徳川に付きます。ただ、ほかの大名と違いふてぶてしい要求を出したり上田の城を大改造したりと従順とはかけ離れた態度でした。それから、家康が昌幸さんの要求(信州のあたりを切り取ったら真田家に譲ること)を果たさなかったので、真田家は徳川から離反。もちろん、離反する前に上杉家(豊臣系列)の傘下に入っていたので、離反と同時に豊臣方へ。家康はこれを怒り、真田へ討伐軍を出します。籠城する昌幸さんに家康は大軍を差し向けますが、持ち前の巧妙さでこの危機を回避。これが第一次上田合戦。
ちなみに、昌幸さんは家康が大嫌いです(約束を破ったから) 家康も昌幸さんが大嫌いです(何度も煮え湯を飲まされているから) 互いに「食わせ者」と評価し合っていたようで(笑)
あと、真田家が上杉の傘下に入るときに人質として出したのが昌幸さんの二男、信繁(幸村)です。これが幸村と兼続の出会いです。ただ、上田合戦のときにお家の一大事、ということで幸村は上杉家から真田家に戻ります。そしてその後、今度は真田が豊臣に直接仕えるようになったときにまた人質として豊臣家に出されました。
・・・なんかキモいですね・・・何ぞこれー。思った以上に長くなったので一回切ります。
めちゃくちゃ読みづらくてすみません。ていうか読んでくれる人なんているのかなこれ(笑)
誰かこんな感じで真田家について語り合える人はいませんか←
武田の傘下になった幸隆さんが、人質としてお屋形様に差し出したのが三男の源五郎(昌幸さん)です。昌幸さんは持ち前の気配りでお屋形様のハートをばっちりゲット、めっちゃ気に入られてたようです。絶家になってた武藤家(武田の一族)を継がせて武田の一族にしちゃうくらい。そんなわけで、お屋形様に大事に育てられた彼は武田の軍法をばっちり学んでます。さらに歩兵部隊の一部を任されたりと実戦経験もばっちりです。やがて信玄が亡くなり、勝頼くんが長篠で大負けしたことで武田は修正不可能なくらい傾きます。ちなみに、長篠で昌幸さんのお兄さん(信綱さんと昌輝さん)が亡くなり、昌幸さんは信州に戻って真田の当主になります。武田の老臣たちが勝頼くんを見限って離反していく中、昌幸さんは最後まで勝頼くんのそばで励まし続けます。忠義に篤いところも真田の気質なんですかね。
ついでに言うと、このころ(戦国時代)にはまだ儒教がそんなに広まっていなかったようで?(このあたりはうろ覚えです・・・)、とりあえず、「忠心」という概念が無かったそうです。もちろん、気質として忠誠心の有り余る人はいます。なので、家臣があまりに熱心に主君に尽くすと 「あの二人デキてるんじゃない?」 的なうわさを流されたようです。この忠誠心という概念が広まったのは江戸時代だそうで。余談終わり。
やがて勝頼くんが自刃、武田が滅亡します。それから一時は滅ぼした直接の原因ともいうべき織田に付きます。しかし、本能寺の変で織田家も滅亡、天下取り合戦が始まります。家康がこのごたごたにまぎれて関東あたりの土地を一気にまとめます。ただの火事場泥棒です。この時代の天下争いは前のようにごちゃごちゃしたものではなく、大勢力同士の争いなので、ただの小大名だった真田家は 「とりあえず徳川についとけば安全」 ということで徳川に付きます。ただ、ほかの大名と違いふてぶてしい要求を出したり上田の城を大改造したりと従順とはかけ離れた態度でした。それから、家康が昌幸さんの要求(信州のあたりを切り取ったら真田家に譲ること)を果たさなかったので、真田家は徳川から離反。もちろん、離反する前に上杉家(豊臣系列)の傘下に入っていたので、離反と同時に豊臣方へ。家康はこれを怒り、真田へ討伐軍を出します。籠城する昌幸さんに家康は大軍を差し向けますが、持ち前の巧妙さでこの危機を回避。これが第一次上田合戦。
ちなみに、昌幸さんは家康が大嫌いです(約束を破ったから) 家康も昌幸さんが大嫌いです(何度も煮え湯を飲まされているから) 互いに「食わせ者」と評価し合っていたようで(笑)
あと、真田家が上杉の傘下に入るときに人質として出したのが昌幸さんの二男、信繁(幸村)です。これが幸村と兼続の出会いです。ただ、上田合戦のときにお家の一大事、ということで幸村は上杉家から真田家に戻ります。そしてその後、今度は真田が豊臣に直接仕えるようになったときにまた人質として豊臣家に出されました。
・・・なんかキモいですね・・・何ぞこれー。思った以上に長くなったので一回切ります。
めちゃくちゃ読みづらくてすみません。ていうか読んでくれる人なんているのかなこれ(笑)
誰かこんな感じで真田家について語り合える人はいませんか←
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